彼女が退職する

以前の日記にちょろっと書いたことがある眼鏡のお姉さん。
僕が彼女の誕生日を覚えていたことで、安堵した彼女。
僕が好きな、先輩。


その彼女が僕を仕事中に呼び出した。
どうせろくでもない難儀な相談だろうとは思っていた。
だけど、彼女は僕に告げた。
「わたし、退職するね」
いろいろ事情はあるので、不自然でもなんでもなかった。
きっと、彼女なりに出した「結論」だ。
だから、ここで「嫌だ」と言うのは意味が無い。
それは、彼女の出した「結論」を否定することだから、
彼女に失礼だ。


「――そうなんだ」

「なんだか意外」

「どうして?」

「もっと驚くと思ってた」

彼女は驚いたようだった。


それほど僕は子供に思われていたのだろうか
泣き喚くとでも?


職場の皆が彼女の敵になった時、僕は彼女の味方でいた。


下心じゃなくて、なんだろう、
"1対全部"の構図になることを避けなくては、と思ったんだ。
その構図はきっと、間違いやすく暴走しやすいから、
たった1つを傷つけることに対する罪悪感を薄めてしまうから
これが1対1、1対多数、くらいなら、
僕もほっておく、無関心でいる、その方が楽だし、
……いや違う、
双方傷つくリスクを覚悟しての「戦い」ならば、
止めることには意味は無い、
「穏便にすむ」以上には意味は無い。だからだ。


そうだった、そんな構図の時、
だけども、僕は一度見殺しているんだった。
すごく後悔したんだった。
だから、その時決めたんだ、今度は捨てないって。
そして、捨てなかった。その時の自分への誓いを


僕一人が抗っても仕方なく、
実際どの程度彼女を護れていたかは判らない。
きっと、ちっともだったろう。

僕と彼女は、職場の配置上「二人ぼっち」だ。
僕が入院してた二週間、
タダでさえ離職率が高く、心を病む事の多い福祉職
彼女が一人ぼっちだったことは想像に難くなく、
それがどんなものかは知っている僕、
彼女が同部署に来るまでの僕が
どんなものか知っている僕だから
先を越された。


ついに折れたか――


どんな堅いものでも、
折れるまで力を加え続ければ、やがて折れるから。
三本では折れない矢も、一本なら折れるから。


別に彼女が光だった訳でもなく、
彼女に天使を重ねた訳でもなく、
そういう意味では別に何もなかったが


同じ仕事をし、同じ体験をしたのだから、
同じとは言わないが、似てきた筈で。
やっと得た「僕の理解者」であるかも知れなくて
そういう意味では唯一無二で。


別れの前に、
今度はきちんと自問出来た。あたふたしなかった。
今までの僕を振り返る、
僕は彼女に、出来る限りのことをしてあげたか?
悔いはない。
悲しいけれど、悔いはない。
約束があったが、クリアした。
いつでもクリア出来る約束で助かった。
期日限定の約束とか、
遠い未来の約束でなくて良かったと、本当にそう思う。
僕が彼女の誕生日を忘れていなかった、
そんなちっぽけなことに安堵した彼女を相手にしたからこそ、
たとえちっぽけな約束でも、護らないといけない。


(いや、ま、約束守るにこしたことはないんだが)

護った。果たした。
これで"約束は僕を縛らない" 呪わない。
だから後悔はない。


さあて――、
僕は、まだまだ折れる訳にはいかなくなった。
顔を上げて、深呼吸ひとつ。


ひとつ、嬉しかったことがあるんだ、
辞める事を聞くのは「僕が初めてだ」と言う事だった。
……まあ、流石に上司とかは除いてだが。


そしてそれを彼女は「当然のこと」だという反応で
返してくれたことだ。実際そうかはともかく、
なんだか、それが嬉しかった。